江戸野菜博物館
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江戸食べ物事情
はじめに

江戸でその独自の「外食」産業が盛んになったのは、文化・文政つまり19世紀初頭(1800年から1830年くらい)のころといえます。 このころに、江戸庶民のファスト・フードであるにぎり鮨はじめ、天ぷらなどの屋台が生まれたのです。これらの江戸のファスト・フードは、 その時代としても低廉な価格ではあったのですが、庶民がこのような「外食」を楽しむことができるようになったことは、江戸にある種の食文化が 形づくられたということを意味しています。
しかし江戸はほんらい、庶民には過ごしにくい町でした。江戸の人口は、ずーっと男過剰で、しかも5人組や檀家制などによって、相互監視が されていたからです。ただ、このような相互監視が日常化すると、一種のあきらめなのか、慣れなのか、それとも生きる上での知恵なのか、 相互監視に安住する社会となってしまいました。そこから相互監視を言い換えて、あたかも親密な人間関係が存在したがごときの「人情豊かな江戸下町」 という伝説を生むことにもなりました。三食のおかずどころか、夫婦のセックスに至るまで、隣近所に筒抜けなどというのは、単なる親密な空間で あるはずもなかったのです。まずは、江戸は基本的には、このように相互監視・他者排除・差別の空間であったことを確認しておきます。
このような都市空間では、「都市は人を自由にする」というわけにもいかなかったのですが、かえって江戸の人びとを経済蓄積に向かわせ、 江戸時代中期以降、閉じられたものとはいえ文化的にはある種の成熟がすすみました。それは、いま現在の「金銭中心主義」に近いものであった といえます。要するに、他の領域では身動きがとれないけれど、経済社会ではある程度の自由が生まれたということです。
江戸の食文化も、そのような限られた自由の中で庶民が生み出したものといえます。
1. 江戸庶民と野菜―式亭三馬『浮世風呂』の世界から
まず、『諢話浮世風呂(おどけばなしうきよぶろ)第四編巻之下 男湯の巻』から、江戸末期の庶民の暮らしを見てみましょう。風呂に入った人びとが役者話や 他愛のない話をおもしろおかしく展開している中に、次のようなやり取りが出てきます。いまの生活との比較も含めて考えてみる材料として、少し長いのですが、 引用してみましょう。
肝右ヱ門(きもゑむ)「何事も気の早いことさ。納豆を見なせへ。わしら冬でなくては食ねへもんだと心得居るに、ちかごろは八月のはじめから納豆汁だ
古左ヱ門(ふるぜへむ)「さやうさお前。霜月頃にたべたいと思つても、もはや納豆なつとウの声もしませぬ。イヱそれについておはなしがある。 お江戸に産れた有がたい事には、年中自由が足る。初物は一ばんがけに食ふなり。その外青物にせよ、魚類にせよ、四季ともに是一種無いといふものがござりませぬ
きも「それだから栄耀にほげてさまざまのごたくをつくすだ
古「イヱサ何なりとも四季に絶ず。扨又孔方さへ出せば一切用を足す所ゆゑ、お江戸に産れた衆は豆がいつ何時でき出来る物やら、芋は何時に実の入るものやら、 旬をしりませぬ。植つけがいつごろで刈時がいつだといふ事もむちや助さ、おまへ。わたしが先達て去る所へ参つたが其国は魚がめつそうに下直さネ。 此位ある、イヤほんに魚尺は取らぬ物だといふが、なでも引立てられねへ程の鰹が三十六文さ。ネおまへ、肝の潰れた話だネ。なかなか五人や十人で 食切らぬほどの大鰹が三十六文だから、片身骨付の方を二拾で買てさしみ身にした。サ爰がおつさネ。かんじんの大根おろしといふ所が大根がない。 ネ不自由だて。爰らの所を江戸の衆に聴せたいネ
きも「中六もあば民もよく聴きやれ。さういふ利屈だア
古「ネ、外の国は不自由だネ。それから大根を買ふには道の六里も行ねばならないといふが、サア爰だて、ソレ人を雇ツて買にやつた所が其日の間に合ず、 又合た所がひようせん日雇銭のすくなずくなも百五十もやつて、大根の値が一本六十四文もせう。都合で二百二三十も出して大根を買ふに、鰹は一本 三十六文だハヽヽヽヽ。イヤこんな相違な事も無い物さネ。ぷりぷりする鰹が一節九文さ。それで其土地が海へ僅一里あるどうもはき場がないから 自然と安く売る。そこは又お江戸のありがたさには、海へ一里ある所で御覧じろ。江戸前だと云てお値段が猶貴いさハヽヽヽヽ。(略)
江戸時代も半ばを過ぎると、江戸という町は、監視社会である一方、経済的には庶民がいろいろな消費生活を享受するまでになっていました。
式亭三馬が描いているように、すでに、1820年ころの江戸では、庶民の生活ですら、農耕や漁業とはかけはなれていました。 どのように野菜が育てられているか、いつが植えどきで、いつが収穫どきなのかを知らなくても、江戸では暮らしが立ったのです。 このように、野菜や稲は、都市で産まれ育った者にとっては、食べる対象として関心があるのであって、その栽培には無関心なのは、いまにはじまったことではありません。
同時に、一般に海に近い土地なら海産物は安いはずなのに、江戸の場合、江戸の海浜で獲れる魚には、『江戸前』というブランドがつけられ、 そこでは同じ魚でも地方の漁村と異なって、かえって内陸よりも値段が高いことも指摘しています。
野菜についても、江戸前の魚と同様です。はしりの野菜や特定の産地の野菜がブランドものとして珍重されていました。この時代にはとっくに促成栽培が行われており (江戸では、寛文年間=1661年~72年=に、砂村=現在の江東区=ではじめられたということですが、なんと京都では1580年代には、はじまっていたといいます。 ちなみに古代ローマでも促成栽培が行われていたといいますから、驚きです)、幕府からは贅沢だとして、1670年以来何度となく禁令が出されています。 1842年(天保13年)に出された御触書には、おおよそ次のように示されています。「野菜については、その収穫の季節以外に売買してはならぬというお触書を前々よりだしている。 にもかかわらず、近年初物を好む風潮が目に余るようになり、ことに料理屋が競って買い求め、高価な料理を出しているのは不埒でけしからん。 たとえば、きゅうり、なす、いんげん、ささげ、さらにはもやしものと称して、雨戸をかけたむろ室(図-1を参照)を用いたり、室内で炭団などで温めて栽培し、 年中、時期はずれに売ることは奢侈を導くことから、今後はつくってはならぬ」。
ところが一方で、江戸時代に出された多くの農書では、促成栽培を勧めており、商品作物への理解が官(幕府)と民で大きくことなっていたことがうかがえます。
徹底的な相互監視社会を築いた江戸幕府でしたが、その中では比較的自由であった経済社会が、いつしか市場原理で動きはじめ、江戸庶民もその中で限定的とはいえ 「自由」を楽しみはじめていたのです。幕府はそのような市場原理を十分には理解できなかったようです。すでに経済は、武家社会の論理ではなく、商人の論理でしか 動かなくなりつつあったのです。あまりに農本主義的な幕府の禁令は、そのせいかあまり効き目はありませんでした。
ただし、このような「走り」を珍重する心理は、『日本料理の要点』で魯山人がしたり顔で説いた高級料理屋の心得によるものなどではなく、まさに経済社会でしか 自己表現し得ない状況の中での町人の「見栄の消費」(T.ヴェブレンの『消費社会の論理』によれば衒示的=見せびらかし=の消費)によりかかったものであり、 もっとも簡単に他との違いを見せつけることができる消費行為だったからです。ほんらいの料理の観点からすれば、このような希少な素材に頼るのは、安易な方法であり、 ごく普通の素材を高級料理に仕立て上げ、なお、それを正当に評価できることが本質といえます。世界の料理でフランス料理と中国料理が際だっているのは、 もちろん珍奇な素材もありますが、いずれも基本的には比較的入手しやすい素材やときには傷みかけた素材までも、高級料理に仕立てる工夫をしているからです。 同じ見せびらかしであっても、このように人間の工夫が入るものの方がより文化的行為のはずです。ところが、このような形になると、ほんとうに料理を理解していないと その違いが分からず、「見栄」がストレートに伝わらないため、この国では、素人が見ただけで分かる素材での差異が尊ばれたようです。そのなごりは、現在でも一目でそれと分かる ブランド・バッグに見られます。
話を元に戻しましょう。もちろん、江戸や大坂のような大都市の近郊農村はそのころの日本においては、特殊な地域であったことを忘れてはなりませんが、百姓というと すべて農民で稲作が中心であったと考えている人が少なくありません。しかし、百姓とされた人びとの中には、回船問屋や商業者も含まれていましたし、 江戸はじめ京・大坂という大都市近郊について言えば、いま見たように農民は都市消費者向けの蔬菜などの商品作物を積極的に栽培していたのです。 このような都市近郊農民の動きは、幕府の農本主義の論理にまったく反するものでしたが、台頭しつつある商品経済に積極的に挑んで行く姿がうかがえます。 これらの農家は、アントゥルプルヌール(起業家)であったわけで、その結果、金銭的に成功し、なかには農閑期に大都市の芝居見物をするものもいました。 地方の自給的農作あるいは米作の農家が幕藩体制の厳しい農本主義状況にある中、大都市近郊ではもちろんリスクは覚悟の上とはいえ、商品作物をつくり裕福になった農家が 存在したのも事実なのです。このような商品作物栽培農家が、都市の消費的文化である食文化の成立の基盤のひとつだったのです。
それでは、じっさいにどのような野菜が売られていたか、やはり『浮世風呂第四編巻之中 男湯の巻』をのぞいてみましょう。
青物うり「何を上やす。生姜かヱ。こりやアおめへ、大束だア。大束がなんなら、此下に小束もありやす。皆おめへ、撰だあ孰にしなさる
けち兵衛「イヤイヤ、まあ生姜は置てくだんせ
商人「白瓜はどうだネ。唐茄子十六大角豆、冬瓜丸漬瓜、柚茗荷青番淑、その外見なさる通りだ。たんと買てくんなせへ。けふはべらぼうに 荷が勝たから重くツてならねへ
このような会話のあと、青物売りの持ってきた唐茄子の産地として砂村(現在の江東区の中東部)が挙げられ、他とは品が違うから値が高いことが強調されています。 ブランド野菜だったのです。
さらに、江戸野菜の場合、優秀な品種の種子を採り、販売する農家が1730年ころの享保年間に現れ、とくに滝野川(東京都北区滝野川)付近で、半農半商の種子業者が 成立したといわれています。「滝野川」の種子業者(桝屋孫八・越部半右エ門・榎本重左右衛門の三家が中心)は、にんじん・牛蒡・大根等々の優秀な種子を全国に行商し、 広めて行きました。いわば、優秀な「江戸野菜」は、江戸という地域に閉じこめられた地域品種ではなく、全国ブランドとしてあったといえるのです。
2.江戸の野菜料理はどうだったのか
江戸時代には、料理書が数多く出されています。しかし、その中で出てくる野菜料理は、さほど多くありません。おそらく、ご馳走というのは、魚や鳥などのタンパク質の 料理であって、野菜類はお惣菜やご飯の増量剤(いわゆる糧飯です)として、日常の中で用いられることが多かったからでしょう。ただ、『浮世風呂』が世に出たころ、 江戸の市中では、前もって洗ってある野菜が飛ぶように売れたということです。庶民の生活のなかでは、野菜はかなり使われていたのでしょうが、まるで現在の消費社会に 通ずるような売り方ではありませんか。市場社会というのは、他者との「差異」が利益の源泉になりますから、時代は異なっても、販売する側の発想には似たものがあります。
そのような野菜ですが、じっさいには煮染めや漬物として食べられることが多かったようです。「江戸の野菜料理と漬物」については、いくつかつくり方を載せますので、 そちらを参考にして下さい。
3. 明治のハイカラ野菜
野菜の世界では、政治の世界に先立って「脱亜入欧」が推し進められたようです。1863年にホクホク型のクリカボチャ(西洋カボチャ)がアメリカから もたらされ、やがてネットリ型の日本カボチャが駆逐され、いまやクリカボチャ系統のものが主流を占めています。キャベツもおそらく1700年前後に 伝来しはしましたが、そのときは観賞用の葉牡丹へと品種改良されて行き、野菜としての結球性のキャベツは1874年に政府が欧米の種子を取り寄せて 試験植栽したものが、その後普及したとされています。カリフラワーも明治初年の1867年に導入されましたが、大正から昭和初期にかけ多少定着したものの、 本格的な普及は第2次大戦後の1960年前後を待たなければなりませんでした。ブロッコリーも戦前はごく稀に栽培されていたということですが、 本格的には1965年くらいからです。
メキャベツはじめレタスやセロリー、パセリなども、それまでオランダ経由でごく稀に栽培されていたにしても、政府が明治初年に種子を取り寄せてからが、 はじまりといえます。アスパラガスは、北海道開拓使がアメリカから1871年に導入しています。ニンジンは、カボチャ同様、1500年代に東洋種が中国から もたらされ、比較的短い期間で国内でほぼ全域に広まり、地域ごとに特性のあるニンジンがつくられるようになりました。その系統から滝の川大長人参や 金時人参(京人参)など、独特の風味のある人参が生まれましたが、いまや多くは、クセのない西洋系のものになっています。
わたしたちの国で栽培されている野菜の大半は、じつは日本原産ではありません。伝統野菜と呼ばれているものも、数百年前にこの国に伝来したものが 少なくありません。
しかし、この国に伝来した野菜であっても、数百年にわたって定着したものは、この国の環境に慣れながら、また人びとの暮らしに溶け込みながら 育てられてきたものといえます。これらの野菜は、地域の中で自然循環に溶け込みながら、栽培されてきたといっていいでしょう。いわば、文化としての野菜です。
一方、明治以降に導入された西洋野菜は、中産階級以上の一部の人びとを除き、第二次大戦前はあまりもてはやされることはありませんでした。 むしろ大戦後、アメリカの占領時代に、この国の人びとの嗜好が大きく変化していったように思われます。
煮物やおひたしが中心であった野菜が、いつの間にかサラダに取って代わられることになりました。明治の「脱亜入欧」の時代にあっても、日常の中であまり 変わることのなかった食生活が、20世紀の後半にがらっと変わってしまったのです。それまでは、わたしたちのこの国では、西欧生まれの食材や料理についても、 わたしたちの食文化に順応させてきました。トンカツとキャベツなど、その典型でしょう。みそカツやカツ丼というもはや「和食」というべきものにまでアレンジ されています。
時間をかけ、あらたに導入した野菜が自然環境にも社会環境にもなじむことを確かめながら、ゆっくりと食文化に取り入れるのであるなら、問題はありません。 もともと、文化というものは、他者の文化と出会い、それを自らのものに消化しながら変化して行くものですから・・・。
ですから、明治のハイカラ野菜があまり定着しなかったのは、むしろ当然のことだったのです。それより第2次大戦後の半強制的とも考えられる食文化の変化こそが、 問題といえます。
そして今日、開放環境の中で十分になじませることもなく、外来野菜やF1の種子が風靡しています。自家採種はもちろん、できません。有機農業でも、 使われる種子はF1だったりして、生態系も食文化もあったものではありません。
なお、明治の終わりに出された家庭料理書『四季料理』(石井太治郎・著 博文館・明治40年)にいくつか出ている西洋料理も、取り上げていきます。
